都市のエージェントは、コモンの担い手なのか。

都市美を読んで本書にたどり着く。 久しぶりに建築家による文章に触れた。本書は2部から構成される。

第1部は東京の都市の生成変化を北山による歴史認識から追っていき、本書のテーマにあたる現代における都市・建築のあり様を決めるエージェントが建築家でありえているのか、ありえていないとすれば、どう振る舞っていくかを考察している。第2部は北山が建築設計を通じて、社会的拘束を受けつつ示した回答例を示している。

 

初めにに北山の現代認識が示されている。大まかに北山は1968パリ・シカゴ、1989ベルリンを得て現代は過去との切断された時代にある捉えている。とくに共産主義の崩壊によって資本主義を抑圧する原理がなくなり、グローバリズムの拡大と足並みをそろえてるように、資本主義の暴走が引き起こされていると認識している。

 

この資本主義の暴走によって生成される建築が2つあるとし「呼び物としての建築」「のっぺらぼうな建築」としている。北山はいずれも、民主化された匿名的金融資本が生み出す都市現象という意味で同根だとしている。共産主義の崩壊は「イデオロギーの終焉」を意味し、建築の世界においても無思想性であることが当たり前となっているちう。これらの建築は、人々の生活のためにつくられているのではない、無根拠性と無思想性が支配する「商品」だという。

私の理解だと、「呼び物としての建築」は造形的な強さのある建築(通常、ポモやデコンなどと称される現象を想起した)を指しており、「のっぺらぼうな建築」は、マーケティングにより対象世帯、生活様式なども仕様化されているタワマンやアウトレットなどの商業施設をイメージした。

北山は、つづく2008年のリーマンショックと2011年の東日本大震災によって、「私たちは建築や都市は本来、人びとの生活を支えるためにあることをもう一度覚醒させられている」と捉えている。これは右から左に、「思想」のある都市や建築が必要なんだとこぶしを握っているような感じ、もしくは嘆きとして読めた。北山は、阪神淡路や東日本大震災といった災害への対応として「建築家」が話した役割の小ささを嘆いているように思えた。復興は行政により細分化されており、個別最適はあれど全体最適には手が届いていないことへの批判も読み取ることができた。

 

第一部は都市の生成過程を通じてパリ、ニューヨークに対し東京を対置し、ビエンナーレではその東京としう都市において生成された作品として森山邸やアトリエワンなどを代表的な作品として置いている。それはいいとして、私は関心をもったのは、上野千鶴子を引いたマーケットとコモンの構想のパートだった。

パブリックとプライベートの対置を分解し、パブリックを官とコモンにわけ、プライベートを民と私に分けている。災害対応でも自助、共助、公助などに加えて民間企業による対応が必要とされていることに符号する。コモンと呼べるような領域を都市や建築がどのようにフォローアップしていくのか、実現できているものがあるのか引き続き関心を持って参りたい。

北山はコモンズとは、「誰のものではない、しかし誰もが私の場所だと思う」入会地だとしている。本書で紹介されている実作を見てみたくなり、徒歩圏にある「洗足の連結住棟」を訪れた。北山は視線に透過性や交錯可能性で公私やコモンズといった領域規定を図っているようであった。

 

都市美にもあったが、アレントを引き、プライバシーは、なにかを奪われた状態としていた。人が政治にかかわることができる状態をデフォルトとし、かかわることができない状態をプライベートと捉えている。朝目覚めるベッドがある場所として、プライベートをデフォルトと、この状態が何かを奪われてたととらえたことはなかった。

都市のエージェントはだれなのか (TOTO建築叢書)

都市のエージェントはだれなのか (TOTO建築叢書)

  • 作者:北山 恒
  • 発売日: 2015/08/10
  • メディア: 単行本